九死一生(東日本大震災)


今まで味わったこともないような、不気味な痛さでした。ズキズキと心臓が痛んだのです。原因は分からず仕舞いでした。ただ、何か強烈な不安感のようなものを感じていました。

不安な気持ちを少しでも解消しようと妻にメールをして胸の内を語ると、それなら気晴らしに、居酒屋にでも行こうという返信がありました。その内容がまた不思議で、こう書いてあったのです。

「大震災が来る前に、居酒屋で飲みましょう」

その時は何かの冗談だと思い、さほど気にしませんでした。

 

翌日は木曜日で、仕事は午後からでした。しかし、妙に会社に行きたくありません。こんな時は、無理せず休もうと思いました。妻に相談すると、躊躇わずに休めと言われました。ついでに今日、長男が幼稚園から帰ってきたら、次男のお宮参りに行こうと。次男は生後七ヶ月ほどだったのですが、ずっとお宮参りに行けず仕舞いだったのです。しかしながら、普通なら妻の場合、休むなら明日にしろと言います。なぜなら、金曜日に休んだ方が、金土日と三連休になるからです。なのに、木曜。しかも、長男が幼稚園から帰ってきてから支度をして出掛けたとして、お目当ての神社に着くのは夕方になるにもかかわらず。

 

さて、予定通り翌日は、会社を休んで神社でお宮参りをしました。帰りには、銭湯に浸かって一休みし、さらに帰宅後、近所の居酒屋に行ったのです。産地直送の魚介類を堪能しました。

その翌日、金曜日です。

 

なぜか私は、「いつも、ありがとう」と、普段は口にしないような書き置きをテーブルに残したうえ、さらに、

「会社に行きたくないけど、最後だから行ってくるね」と、謎の一言を玄関で発し、会社に出発しました。

勿論妻も私も、そんな言葉を気に留めるはずもありません。

 

いつも通り会社に着いて、早番の同僚と引き継ぎをしている時です、未曾有の大震災が起きたのは。

長い揺れが終わり、周りはパニックに陥っていましたが、私は至って冷静でした。かつて警備業で防災に携わっていたこともあり、私は本能で動いていました。周りを落ち着かせ、安全な場所に誘導したりしました。

 

しばらくすると、妻から電話がありました。

思えば、家は築年数がかなり古い借家。今の揺れではひとたまりもないはず。嫌な予感がしました。

 この時間は、長男も帰ってきているはずだし、家には赤ん坊もいる。

 

電話を取ると、妻が泣いていました。

妻は私よりも肝が据わっていて、ちょっとやそっとじゃ取り乱す人ではありません。そんな妻が泣くほどだから、これは相当なものだと。私は一瞬で覚悟を決めました。その時の感覚は今でも忘れません。何事にも動じない、不動の心でした。「どっちだ? 長男か? 次男か?」

妻がどっちかを助けることは出来たとしても、二人は無理だ。どっちかが瓦礫に埋まったのだと思いました。

 

すると、「みんな無事。早く帰ってきてー」という妻の叫び。その時私の目に、炎が燃え盛ったのです。

必ず帰る……、と。

 

しかし、私の職場は海にかなり近いところにありました。携帯電話のワンセグを見ると、津波十メートルというニュース。元自衛隊の同僚に、「私たち、どうなっちゃうんでしょうね?」と、聞いてみると、「全員、死ぬだろうな。絶対助からねぇ~だろ。ははは」などと返ってくる始末。さすがに津波十メートルですから、みんな半ば諦め気味です。

 

会社から帰宅指示が出て車に乗り駐車場から出る時、頭の中では、急がば回れという言葉が何度も頭を過ぎっていました。

突然、誰かの叫び声が聞こえました。

「津波だーっ」

その声を聞いて、私はとっさに左折しました。

 

そう、私の自宅は右方向なのです。

いつも海沿いを帰っていたのですが、その日はなぜか、行ったこともない左方向へと車を進めたのです。

 

さて、左方向へと曲がったのはいいのですが、さすがに遠回りでした。そのうえ上り坂で、道路は渋滞。

途中、橋の崩壊や道路の陥没、電柱が倒れていたり建物が崩壊していたり、火事も沢山見ました。

普段は一時間もかからない距離が、その時は七時間ほどかかりました。私が家に着いたのは夜の十一時。

 

家の中は悲惨な状態でした。台所は食器棚からほとんどの食器が飛び散って破片だらけ。二階は見るも無惨な光景で、ほとんどの家具が倒れていました。余震もくるし、いつ建物が崩壊するか分かりません。とても家に居られる状態ではありませんでした。これでよく、妻と子供たちは助かったと思いました。

 

そこから徒歩で三分くらいの場所に、小学校があったので、妻たちはそこに避難していました。

その日のうちに、こうして私たち家族は、無事、再会できたのです。

 

それから、震災時の話を妻から聞いて驚きました。

なぜ、子供たちが無事だったのか……。

 

いつも長男が遊んでる場所は本棚が倒れていたし、いつも次男が寝ている場所には、飾られていた絵や額が落ちて山になっていたのに、二人とも無傷だったのにはわけがあったのです。

 

普段だったら、次男が泣くとすぐに妻はミルクを作りに行くのに、その時はなぜか、階下の台所に行くのを躊躇っていたというのです。理由は全く分からなかったと言います。ただ、なぜか行かないという。次男がお腹を空かせて泣いても、なぜか。今までそんなことは一度もないのに。

長男は、本棚付近でいつも玩具で遊ばせているのに、その時は妻の隣でテレビゲームをやらせていたといいます。

普段はやらせないのに。

 

さて、未曽有の大震災がきました。本棚や家具は倒れる、絵や額は上から落ちてくる。が、妻たちがいる所だけは一切被害のない安全地帯。

揺れがおさまった時、妻は今のうちに下に逃げようと思いました。

なのに、手元にあったはずの携帯電話がない。しかも、ドアが開かない。

 

それはなぜか。

ドアの向こうには、雑誌等を詰めたダンボール箱を置いていました。

勿論ドアの開け閉めの邪魔にならないように、隅に重ねて置いておいたのですが、それが揺れで倒れてドアを塞いだのです。でも、そのくらいはいざとなったら火事場の馬鹿力で弾き飛ばせます。

 

何と、鍵が掛かったのです。

その鍵はというと、子供たちが勝手に一人で階段を下りないように、外側から掛けられるようにと付けた、フック型の鍵でした。それが揺れでクルッと一回転して独りでに鍵が掛かったのです。それで妻は部屋に閉じ込められました。

 

次の瞬間、またしても激しい揺れが……。

そして、揺れが治まった時、妻は言葉を失いました。あんなに探しても見付からなかった携帯電話が、なぜか手元にあったのです。

 

さらに、驚くべき光景がそこにはありました。

二階のもう一つの部屋にもドアがあるのですが、そこは使用しないということで、本棚を置いて塞いでいたのですが、揺れで倒れて本棚が真っ二つに折れ曲がり、道が出来ているのです。

そう、逃げ場が作られていました。

そこから無事、妻と子供二人は脱出できたのです。

 

妻はこう言いました。「もし、あの時、揺れが治まったと思って階段を下りてたら、大変なことになってたかも」

まさにその通りだと思います。九死に一生を得たのです。

 

そして、ここからが驚くべき話なのですが、私が会社から帰ってきた道、全部、津波を避けていたのです。

私は知らなかったのです。自分が津波から逃れていたなんて。しかも、ギリギリのところを逃れていたなんて。

 

震災の一年後くらいに、津波の浸水マップのようなものが書店に売られたのですが、それを見て絶句しました。

まさに私が通ってきた道は、ギリギリで津波を避けている。しかも、私がいつも通っていた道は、完全に津波でのまれていました。

当時は津波の知識など全くなかったので、きっと私は浸水された道路を見ても、ジャバジャバと入っていったと思います。それに、高い所に逃げるなんて知識もありませんから、早く帰ることだけに必死になって、命を落としていたことでしょう。はじめて通った左の道は上り坂だったので、津波を免れることが出来たのです。

 

まさに一寸先は闇。

あの時いつも通り右に曲がっていたら、私は今ここに居なかったと思います。

津波だと叫んでくれた人がいなかったら……。

 

そして、お宮参りを金曜日に予定していたら、私たち家族は一体どうなっていたでしょうか。

その神社は高台にあり、地震の被害も灯籠が倒れたり建物が崩れるくらいで済みましたが、問題は帰り道です。

時間を計算すると、恐らく私たちは震災の時間、神社から帰る頃。

ユーチューブなどでその時の、神社付近の道路の映像などを見て凍りつきました。あの時、あの場所にいたら、完全に激流に車はのまれていました。それに、私のことなので、きっと家に帰ることだけに心血を注いだことでしょう。帰り道はずっと海沿いなのです。どこまで進んでも津波は押し寄せて、ほぼ百パーセントに近い確率でのまれていたと思います。木曜日に入った銭湯も、津波にのまれて崩壊していました……。

 

そして居酒屋です。

その産地直送の魚介類は、それからしばらく食べられなくなりましたから、まさに貴重な海の幸だったのです。

 

数え切れないほどの奇跡体験を思い出すたび私たちは、今ここに生きていること、生かされたことに感謝せざるを得ません……。